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大堤誕生

 


 佳景山駅と前谷地駅をむすぶ線路の南側一帯には、大堤という巨大なため池がありました。
江戸時代に開墾された新田のために作られたもので、昔は、現在のように河川から灌漑する技術がなかったため、このような水源が必要だったのです。

 なぜ新田が作られることになったかというと、それには当時の仙台藩の事情が大きく関係していました。

 万治年間(1658〜60
、仙台藩三代目藩主綱宗は、放蕩がすぎるとの理由から幕府から逼塞(監禁刑)を命じられてしまいました。
急遽次の藩主となった四代目綱村は、まだ二歳の幼少であったため、後見人に岩沼城主田村京輔、一関城主伊達兵部少輔が当ることになります。 (これらの顛末は山本周五郎の小説「樅の木は残った」に詳しい)


 この二人に幕府は、もともと持っている知行に加増させそれぞれ三万石の大名にしました。しかもその立場は「幕府直参」であり、後見人であることに加え、幕府の権威という背景を持った二人の力は、かなり強力なものとなってしまいました。

 もっとも幕府直参といっても、加増分は幕府がくれるわけではなく、仙台藩が自らの力で行なわなければなりません。もしこれを怠り、幕府に加増されるようなことになれば、後見人の「幕府の権威」が益々顕著になり、彼らの専横を妨げることが難しくなります。


  そのためには、開墾による新田開発しかありませんでした。既に仙台藩家臣が持っている土地を取り上げることなどできませんし、なにより川村孫兵衛の工事によって、北上川下流域には豊穣な田んぼになりそうな土地が沢山生まれていたのです。

  この新田のために生まれた大堤は、東西に2.7キロ、南北に3.3キロ、水深1.9メートルというまことに巨大なものでした。足掛け四年の人海戦術のたまものです。
 新田開発の増進のために、借りた金二年間の無利子返済や、四年間の「荒地扱い」(つまり収穫しても年貢を払わなくていい)という制度も行なわれ、
開発はますます盛んになっていきました。
 大堤は魚が貝が豊かにとれるため、住民にとっての大きな生活資源だったそうです。雁や白鳥などの渡り鳥も飛来したそうです。


 



          参考文献:
「河南町史」上巻、「定川出来川沿岸土地改良史」