TOP歴史探訪>お話

 お話 史実、おとぎ噺両方

義経伝説
月観の松
牛になったインチキ僧
土堤ダンボ・菅原正信
子供たちを救った住職

 

義経伝説

 和渕に「笈入」という地名がありますが、その名の由来は義経との説があります。
 義経がここを訪れた際、和渕明神に加護を願って、笈(修験者や僧などが荷物を入れて、背負う箱)に入れていた柳の枝をとりだし、地面に挿しました。それが成長して、地名になったということです。
 

 小松の「鷹の池」は、藤原氏が滅亡したとき義経の飼っていた八羽の鷹が飛んできて水を飲んだ池であるとされています。



月観の松

 義経つながりでもうひとつ。

 東北地方で算出した金を、京で売りさばき莫大な財産を得た金売吉次という商人がいました。(裏付ける資料がないため、 本当にいたのかどうかはわからない。吉川英治の「新平家物語」などに登場する)彼は義経が鞍馬寺を脱出し、奥州藤原氏に身を寄せるのを助けたといわれています。

 その吉次が滞在し、月見を楽しんだことから名づけられたのが、五味倉にある「月観の松」です。

 

牛になったインチキ僧

 むかし、牛飼村は幸村といいましたが、そこに伊藤孫右衛門という者が住んでいました。彼は信心ぶかく、日ごろから念仏を唱えることをおこたりません。
向学心があり、いずれは学僧に学びたいと願っていました。
 そんなある日、みずぼらしい服を着た僧が彼の家にやってきました。孫右衛門は大喜びして、教えを乞いました。
しかしこの僧は別に学識もなく、念仏をとなえてその日の飯にありつく乞食坊主でありました。彼は孫右衛門をいいカモだと思い、
「仏の教えは一朝一夕で身につくものではありません。一緒に暮らして修行し、時が来たら教えてさしあげましょう」
 この言葉に孫右衛門は、まんまとのせられ、心づくしで僧をやしないました。
 半年が過ぎたとき、孫右衛門は
「そろそろ教えてください」
 といいましたが、僧は「まだ修行が足りない」などと言い訳をして引き伸ばしをはかります。

 しばらく経ったある日、孫右衛門が僧のもとに向かうと、どこにもおらず、なぜか見知らぬ牛が一頭おります。
 この牛、よく見ると、顔が僧そのものでありました。僧はウソをつき、孫右衛門をだました罪で畜生界に堕ちてしまったのです。
 僧は涙ながらに、こういいました。
「これからは、私をどうか耕作に使ってください。今度こそ、あなたのご恩に報いたい」
 孫右衛門は固辞しましたが、僧はきかない。ついには折れて、
「それでは、ありがたくお受けしましょう。ただし、百年後には大日堂(大日如来を祀った堂)を建ててあなたを祭りましょう」
 ふたり(?)は力を合わせて働き、お金持ちになって村名を「牛飼」と改めました。
 約束どおり、牛の死後大日堂が建てられました。その堂は現存するそうです。



 

 

 

土堤ダンボ・菅原正信


 時は幕末、高潮によって定川があふれ、また堤防が破壊されて大曲村は大きな被害を受けました。 
 仙台藩には堤防を修復する余裕がなく、このままでは被災した農民を救うことができません。
 これに立ち上がったのが大曲村の豪農・菅原正信です。彼は私財を投じて数千間にもわたる(1間は約1.8m)堤防の修復を始め、その労働力には被災者をあてて雇用をつくりだしました。
 その後、人々は彼を「土堤ダンボ」と呼んでたたえたといいます。

   

 

子供たちを救った住職

 大堤干拓が着手されると、県による入植者募集がはじまり、多数の応募者に審査がおこなわれました。
 干拓の完成とともに入植者が移住してきましたが、その生活はきびしかったといいます。体の弱い子供にとっては、特につらい環境だったでしょう。
 家族ぐるみで耕作にいくので、赤ん坊も連れて行かれ、親たちが作業している間放置され、幼児死亡率が高かったそうです。

 これを見かねた広渕沼の住職庄子仙嶺師は近隣を托鉢してまわり、そのお金で託児所を建てようとしました。
 はじめは「山師坊主」、「金取り坊主」と人々から罵倒されましたが、やがて師の誠意はつたわり、協力者がしだいにふえてゆきます。
 
 こうしてついに大正15年7月13日、広渕村広渕寺境内に、「広渕簡易託児所」が建設されました。
 毎年春秋の二回、農繁期に開かれ、百二十名を越す子供たちがそこで過ごしました。備品にオルガンや蓄音機、百名分の食器、ブランコなどがあったそうです。そのにぎやかさが想像できます。