正宗の政略は、改修工事で増産された米を、北上川を使って河口付近まで運び、そこからは江戸まで海路で運び、利益をあげようという、まことに壮大なものでした。 太平の世が訪れたことで、人口が増える為に米の需要はますます増加するだろうという正宗の読みです。
当時は正宗の構想にふさわしいほどの港がなかったので、石巻を港町として開港することにしました。
北上川の改修、石巻の港開発の責任者に任命されたのが川村孫兵衛です。
川村孫兵衛は長州の出身であり、もともとは毛利氏に仕えていました。関が原の合戦が終ったあとは浪人になっていましたが、正宗にその才能を見出され家臣となりました。
すでにいくつかの土木工事などで結果を残していた孫兵衛。
北上川改修工事のために釜(現在の東松島市大曲)へ引っ越してきた事が示すように、意気込み充分で工事に挑みます。
孫兵衛は工事中、人夫たちと寝食を共にして働き、仕事が終ると家の風呂を彼らに開放するなどして、一致団結して工事にあたりました。
身銭を切って酒肴をふるまい、人夫の労をねぎらったともいわれています。
また、工事のために自ら借金した事もあるようで、各地に孫兵衛署名の借金証文が残っているといいます。公共心の非常に強い人だったのでしょう。
孫兵衛の性格をあらわす話があります。
正宗は孫兵衛を家臣にするとき、五百石の良い土地をあたえようとしました。
対し、孫兵衛は、こう言います。
「そのように恵まれた土地ではなく、荒地をいただきたい」
正宗は言われたとおり、田んぼ百石と荒地を孫兵衛に与えました。
孫兵衛は荒地を開拓し、その生産高は千石となり、しばらくすると三千石を超えたということです。
並みの人物であれば、五百石を大喜びで受け取っていたところでしょう。
しかし孫兵衛は、あえて荒地をもらい、それを豊かな土地に変えることで自分の実力をアピールしました。
この成功が、後の北上川改修工事に任命される事につながったことは想像に難くありません。
江戸時代に入ってから、仙台藩全体で新田開発が盛んになりました。その中でも、孫兵衛が工事した北上川河口付近ではめざましく、桃生郡では新田の割合が71.3%、牡鹿郡で57.9%と、藩平均の35.7%を大きくうわまわりました(1684年の検地。当時の牡鹿郡、桃生郡の範囲は現在の石巻市、東松島市を含む)。
石巻港は伊達62万石を支える玄関口として繁栄しました。その賑わいは、松尾芭蕉が「おくの細道」に”數百の廻船入り江につどひ、人家地をあらそひて竈(かまど)の煙立ちつヾけたり”と記したほどでした。
孫兵衛が北上川河口付近にもたらした利益ははかりしれません。今、彼の銅像は日和山公園にあり、その視線の先には北上川が悠然と流れています。
参考文献:「河南町史」上巻
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