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 北上運河 

 

 野蒜は、夏には海水浴客でにぎわい、乗馬クラブもあるのどかなところですが、もしもただ一度の台風がなかったら、今とはまったく違う大都市となっていたかもしれません。

 明治時代、野蒜は、大久保利道をはじめとする明治政府から国際貿易港としての期待をかけられていました。
 野蒜は鳴瀬川の河口にありますが、この鳴瀬川と、北上川と阿武隈川を運河で結び、北は岩手県、南は福島県北部までを網羅した巨大な輸送路をつくり、野蒜をその玄関口として発展させるという構想を、明治政府は立てていました。
 石巻や女川なども候補としてあがっていましたが、石巻は北上川が運んでくる土砂のため水深がある港を作るのが難しいこと、女川は水深はありますが内陸との交通が不便という理由で却下されたのです。

 明治政府は西南の役に忙殺されていたにもかかわらず、初めて内国債を発行して野蒜の工事に充てたことからも、国際貿易港への期待感を想像できます。



 北上川と、鳴瀬川の河口を結ぶ目的で作られたのが、北上運河です。
 これは当時の水運の主流であったのは小型船だったため、北上川を下ってきたとき、野蒜へ行くために海に出ると転覆してしまうおそれがあり、かといって大型船に荷物を詰め替えるのは手間だからです。
 工事は明治10年に着工されました。その様子はとてもにぎやかで、餅やだんごがよく売れたそうです。
 明治15年10月にみごと完成し、小型の汽船が定期運航され、北上川をくだって仙台方面へ旅行に来る人が多かったそうです。宮沢賢治も来たと、聞いたことがあります。
 ただ、冬は凍結したり、満潮でなければ航行できなかったりと、輸送路としては欠陥もあったそうです。

  北上運河は多くの人の期待を受けて生まれました。
 ですがまことに不運なことに、誕生のわずか二年後に、野蒜を巨大な暴風雨が襲います。
 施設、設備全てがめちゃくちゃにされ、明治12年から進んでいた工事は一日で元の木阿弥となりました。
 野蒜を国際貿易港にするという構想は、消えてなくなったのです。
 北上運河の目的は、奪われてしまいました。幾度も来る水害によって水深は浅くなり、大型船の航行もほとんどなくなってしまいます。今は農業排水路として活躍しています。

 

 

参考文献:「定川出来川沿岸土地改良史」