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歴史概略
 
平安時代後期

 平安時代後期、中央政府の力が弱まってきました。

 陸奥の俘囚長(俘囚:中央政府に帰属した蝦夷の人々。大和朝廷からは異民族扱いされていた)阿倍頼時はこれを機に国司への貢ぎ物を送らなくなります。
事実上の私領化であります。
 中央政府は、源頼義(頼朝、義経のひいひいじいさん)が指揮する追討軍を派遣しました。
 阿倍頼時は戦死しますが、その息子偵任(さだとう)を中心として陸奥勢は粘り強く戦います。しかし出羽の俘囚長・清原光頼、その弟武則が源氏の増援部隊としてあらわれ、陸奥軍はついに撃滅されました(前九年の役)。
 清原武則はこの功で頼時の所領を得ますが、まもなく一族の間に内訌がおこります。それを源義家(頼義の息子)が鎮圧(後三年の役)。 

 
 前九年の役当時、阿倍頼時の娘婿・藤原経清に清衡という子がいました。清衡は反乱の首謀者の孫として殺される運命にありましたが、母が源氏方である清原武貞の妻となったので生きながらえ、後三年の役では源義家の味方として戦いました。
 その功として、清衡は清原氏の旧領を与えられ、奥羽の支配者となりました。奥州藤原氏の誕生であります。

 奥州藤原氏はたくみに中央政府と外交をおこない、その地位を磐石なものとしました。産金により莫大な富を手に入れ、栄華をきわめます。
 河南矢本土地改良区の管内にも、その栄華のなごりは残っています。
 矢本町五味倉にある「月観の松」は、義経を助けたという豪商・金売吉次が月見をしたことから名づけられたと言われています。
 吉次は奥州で産出した金を京で売り、大きな利益をあげました。実在した人物かどうかは、証拠がないためわからないのですが・・・。
 須江代官山の「長者館」それに「本丸二ノ丸跡」も吉次の仮住居といわれているそうです。



  

鎌倉〜戦国時代

 1189年、源頼朝が奥羽の地に攻め込んできました。奥州藤原氏が蓄えた富を手にするためです。
  平泉軍は現在の福島県で迎撃をはかりますが、源氏28万の軍勢に鎧袖一触され、平泉に撤退。しかし1ヶ月後にここも陥落。奥州藤原氏は滅亡しました。

 新たに奥州の支配者となった頼朝は、地頭(警察権、裁判権、租税徴収権など強力な権限をもっている)を任命して支配の強化をはかります。

 牡鹿郡の地頭に任命された葛西氏は、奥州の軍事警察権を与えられるほどの名門でありました。南北朝時代には終止南朝方として戦い、5代目宗清は新田義貞の身代わりとなって戦死しました。
 ちなみに本拠は石巻市日和山にあったといいます。今では公園として整備されており、桜の名所になっています。

 葛西氏は積極的に抗争をおこない、周囲の地頭を倒して領地を拡大させますが、大崎地方を本拠とする大崎氏に苦戦。新興勢力の伊達氏と手を組んで打開をはかりますが、豊臣秀吉の関東征伐に参加しなかったので怒りを買います。
 秀吉は葛西氏の領地を没収しようとしますが、当主葛西晴信は要地に武将を配してそれに抵抗。しかし豊臣方の武将に相次いで破れ、葛西氏はついに滅亡しました。


 新たに牡鹿郡を治めることになったのは、豊臣氏から派遣された木村氏でありました。
 しかし彼の統治は葛西家遺臣の怒りを買い、これを抑えるべく木村氏は三十人を捕らえて磔にするという強硬策に出ますがこれが裏目。
 大規模な一揆が勃発し、木村氏に鎮圧する力はなかったため、かわって伊達氏が命を受け平定に成功しました。